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マンガ研究者・ヤマダトモコの仕事

「マンガ用語〈24年組〉は誰を指すのか?」(1998年)
この文は、商業誌に掲載され報酬をいただいた最初の仕事です。もう18年近く前の文章です。
今でも時々読みたいという方がいらっしゃるのでWEB公開することにしました。
情報が古かったり、読みにくかったりする部分もあるかと思いますが、そこも含めなるべくそのままにしました。
後に判明した事実上のまちがい部分や調査が進んだ部分を、後日注として追加しました。

(2016年5月31日・ヤマダトモコ)[→プロフィールと仕事
][→増補版をWEB公開するにあたって

※誤字・脱字・データ表記の統一等最低限の直しを加えています。
※当時雑誌の表記の都合でひらがなの「まんが」だった地の文をカタカナの「マンガ」に変更してあります。
 書名や引用部分は原典のままです。


Who Does the Manga Term the “24Nen-Gumi(Group of ‘49)”Refer To?
マンガ用語〈24年組〉は誰を指すのか?
 (1998年/2016年5月増補版)

初出:『月刊コミックボックス』vol.108 1998年8月号,特集「20世紀の少女まんが」pp.58-63,発行:ふゅーじょんぷろだくと

マンガ家の基本データに関しては、文中にあげた参考文献、長谷邦夫の名鑑シリーズ、『漫画家・アニメ作家人名事典』、『日本漫画家名鑑500』以外を参考にした場合は〔 〕内に明記しました。
『』内は書名・新聞・雑誌名。それに続く()内はおもに出版社名。「」内は作品名。


一体誰が言い始めたのか
       
 
 

〔※4〕=『ぱふ』(清彗社)
『だっくす』(清彗社)が1979年に誌名を変更したマンガの情報や批評専門誌。1981年に『ぱふ』(雑草社)と『ふゅーじょんぷろだくと』(ラポート)に分かれ、後者の編集部が独立し1982年に誌名を変更したのが『COMIC BOX』(ふゅーじょんぷろだくと)。

 

 

〔※5〕=長谷邦夫の名鑑シリーズ
最初の『ニッポン漫画家名鑑』が1993年出版。現在、『ニッポン名作漫画名鑑』・『ニッポン漫画雑誌名鑑』とあわせて3冊出版されている。千円台と安く手に入るのが魅力だが、データミスがかなり多いのが難。

 

 
 

〔※6〕=『漫画家・アニメ作家人名事典』
日外アソシエーツ・1997年。これは8500円と高価。

 

 
 
〔※7〕=『日本漫画家名鑑500 1945〜1992』
アクアプランニング・1992年。限定5000部製作しマンガ家・全国図書館・関係各社に無料配布とある。
 
 
 

〔※11〕=『鈴木光明の少女まんが入門』
白泉社・1979年

後日注*3= 後日再確認したところp.417に記載あり。

後日注*4= 本文発表後わりとすぐに、竹宮惠子は〈24年組〉の語を比較的積極的に使うことが判明していた。

 

 

 

 少女マンガについて説明される時、よく使われる〈24年組〉という用語がある。どの程度知られている言葉なのかいま一つ把握しかねるのだが、先日インターネットの検索エンジン「goo」で〈24年組〉をキーワードに検索したところ、マンガ用語として使用していたホームページが19件あった。また、戦後のマンガ史を概観する文章にはたいてい使用されているので、ある程度知られている言葉なのだろう。

 今回は〈24年組〉に含まれるマンガ家の分析ではなく、この〈24年組〉というマンガ用語の、とらえなおしをしてみたい。この語には、少女マンガの問題が多く含まれているように思えるからだ。女性と年齢の問題、批評の問題、読者と世代の問題…。少し大袈裟かもしれないが、そう思うに至った訳を書きたい。

 私自身この言葉をいつ何処で目にしたのか今ではハッキリしないのだが、これまで私が知っていたこの言葉の意味を簡単に説明すると、24年というのは昭和24年(1949年)のこと、そして〈24年組〉というのは「萩尾望都〔※1〕大島弓子〔※2〕竹宮惠子〔※3〕らをはじめとする、昭和24年前後に生まれ、1970年代に少女マンガを革新した、マンガ家たちの通称」である。多分この説明は、この言葉を知っている他の人の認識とも、そうズレないだろう。だがこの言葉、そもそもなんだか妙なのだ。つまり、核となる3人のマンガ家のうち、昭和24年生まれは萩尾望都だけなのだから。この事実も旧くからの少女マンガ読者なら、知っている人も多いはずだ。私も文献で読んだのではなく、単行本に掲載される作者紹介や、以前の『ぱふ』〔※4〕などを見ているうちに、自然に気が付いた。それで、この言葉を使う時は、大抵「」などで括られ(私は〈 〉を使っているが)、説明される時には昭和24年「前後」に生まれた人たちだと強調されるのだ。ではなぜわざわざ年を限定しなければならないのだろうか? 何だか「オタク世代」とか「コギャル」とかいった言葉的な胡散臭さを感じてしまう。

 少女マンガ家は年を伏せている場合が多い。特にいわゆる〈24年組〉以降の作家にその傾向が顕著である。今回、正確な年齢を調べてみようと改めて色々な資料を見た。例えば、データハウスから出ている長谷邦夫の名鑑シリーズ〔※5〕『漫画家・アニメ作家人名事典』〔※6〕『日本漫画家名鑑500 1945〜1992』〔※7〕などだ。あるいは、各マンガ家の単行本。この中では3番目の『名鑑500』が出版社と作家の協力を得て作成された一番信頼できる資料なのだが、これはほとんど入手不可能。今回は参考にしていないが、ニフティサーブやインターネットでもマンガ家のデータが流れている。こうした資料は、ものによって生年が違っている場合が多く、つまり本人が公表したのではないデータも多いという事だと思う。作品と年は関係ないと言われればそうだし、私自身研究には生年より、デビュー年のほうが大切だと思うが…。少女マンガ家が年を公表しないのは、作家と読者の年が近いほうがよいからだと、耳にしたことがあるが、それだけだろうか? マンガ家が、公表を望んでいないなら、いちいち詮索するのはいけないことなのか、とすると〈24年組〉なんて言葉にこだわって考えるほうがまちがっているのか…。

 〈24年組〉には、最初は昭和24年生まれのマンガ家がもっと含まれていたのだろうか? 私が代表の3人以外で、だいぶ以前からはっきり知っていた〈24年組〉のマンガ家は、木原敏江〔※8〕山岸凉子〔※9〕だが、2人とも昭和24年生まれではない。そもそもこの言葉、いったい誰が言い出したのか。始めに使用した人もこんなに長く使われ続けるとは思っていなかっただろうが、これからも使っていくならば、できれば語源も含めて、言葉の意味をはっきり把握しておくべきではないだろうか。

 ともかく私は〈24年組〉の正しい知識を得るために、この言葉を知っているという知人に、そのきっかけを聞いてみた。結果は、だいたいが曖昧なのだが、米沢嘉博の名をあげた人・2人。村上知彦の名をあげた人・1人。『COMIC BOX』で読んだと思う・1人。いつのまにか・1人。多分『朝日新聞』・1人。魔夜峰央〔※10〕・1人。私に(つまり筆者に)聞いた・2人。…言葉に疑問を持ちつつ、いつのまにか自分でも普及していたのだ。私自身は、1979年に白泉社が出版した、本格的な少女マンガ家の入門書『鈴木光明の少女まんが入門』〔※11〕からだと思っていたが、今回見返したらこの本には載っていなかった(*3)。多分〈24年組〉とその後継者と言われるマンガ家たちがコメントを述べ、彼女らの作品が引用されていたので、勘違いしたのだろう。この本以前でも以降でもいわゆる〈24年組〉に含まれるマンガ家本人に直接取材した記事では、この言葉は使われないのが一般的である(*4)。人を評価するとき、その生年で一括してしまうのは失礼なことで、彼女たちは不快に思っていたのではないだろうか。この推測はいくつかの資料によって明らかにできるのだが、まず〈24年組〉という語がどのように広がり、後にどういう風に変化していったかをたどってみよう。

 
 
 
 

〔※1〕=萩尾望都
1949年5月12日福岡県生まれ。1969年『なかよし』夏休み増刊に掲載された、「ルルとミミ」でデビュー。「ポーの一族」の作者。〔←『ぱふ』1979年4月号。参考〕

 

 
 

〔※2〕=大島弓子
1947年8月31日栃木県生まれ。1968年『週刊マーガレット』春休み増刊号に掲載された「ポーラの涙」でデビュー。「綿の国星」の作者。

 

 
 

〔※3〕=竹宮惠子
1950年2月13日徳島県生まれ。1967年『COM』7月号に「ここのつの友情」が佳作で入選し発表されるが(*1)、正式なデビューは1968年『週刊マーガレット』正月増刊号の「りんごの罪」。「風と木の詩」の作者。

後日注*1= 『COM』への「ここのつの友情」は部分掲載。同年12月号の新人競作集に「弟」が全編掲載。全編掲載をデビューとするならこの作品がデビュー作といえる。

 
 
 

〔※8〕=木原敏江
1948年2月14日東京都生まれ。1969年『別冊マーガレット』3月号に掲載された「こっち向いてママ!」でデビュー。「摩利と新吾」の作者。

   
 

〔※9〕=山岸凉子
1947年9月24日北海道生まれ。1969年『りぼんコミック』5月号に掲載された「レフトアンドライト」でデビュー。(初出時の表紙は「ライトアンドレフト」になっている。雑誌の目次や、それ以降の作品リストなどは「レフト〜」ホントはどっちが正しいのか?)(*2)「日出処の天子」の作者。

後日注*2= 表題作となっている、あすかコミックススペシャルも『レフトアンドライト 山岸凉子全集28』(角川書店・1988年)、2011年本作が収録された『山岸凉子スペシャルセレクションXII 妖精王2』(潮出版社)でも「レフトアンドライト」。つまり正式には「レフトアンドライト」で統一されている。

 

 

 

  〔※10〕=魔夜峰央
1953年3月4日新潟県生まれ。1973年『デラックス・マーガレット』秋の号に掲載された「見知らぬ訪問者」でデビュー。「パタリロ!」の作者。
   
   

 


諸氏誌による解釈


       

 
 

〔※12〕=『戦後少女マンガ史』
米沢嘉博・新評社・1980年

後日注*5= 1998年時点では絶版だったが、2007年ちくま文庫にて再刊行された。

 

 

後日注*7= 山本順也
1999年小学館定年退職。2004年文化庁メディア芸術祭功労章受賞。2015年7月21日没。ご遺族に確認。

 
 

〔※23〕=別冊太陽『少女マンガの世界』
米沢嘉博編集・平凡社・1991年

 

 
 
 

〔※29〕=『黄昏通信』
村上知彦・ブロンズ社・1979年

 

 

〔※34〕=週刊YEAR BOOK『日録20世紀1974年』
講談社・1997年

 

 
   

後日注*12=「大泉サロン」の始まりは、70年10月から72年に萩尾・竹宮が下井草の別々の場所に引越すまで。73年までとされる場合もあるようだ。(「佐藤史生データベース」大泉サロンについて 参照
大泉サロンでの生活の様子は今年(2016年)1月に刊行された竹宮惠子の『少年の名はジルベール』(小学館)に詳しい。

   
 
 

〔※36〕=『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』
橋本治・1978年・北栄社(図版は河出文庫版・1995年)

 

 
 

〔※39〕=『戦後マンガ50年史』
竹内オサム・筑摩書房・1996年刊

 

 

〔※40〕=『朝日新聞』
少女マンガの世界1975年11月4日〜8日。全4回の内、この記述があるのは、2回目。

 

 

〔※41〕=『漫波』
1974年創刊の『漫画界』誌名を変更したもの。これが、『まんぱコミック』『だっくす』と変遷し、1979年の『ぱふ』に到る。〔←『昭和のマンガ展』図録・朝日新聞社・1989年刊より〕以降は※4参考。

後日注*14= その後現物確認済。『漫波』(月刊漫波発行所・1976年9月10日発行号掲載)

後日注*15= 〈24年組〉の語は、おそらく「大泉サロン」解散後以降、山田ミネコらの周辺から発祥した語、つまりマンガ家なかまらによって使われはじめた語であろうことが、その後の調査で判明している。(著者担当のキーワード「花の24年組」『マンガ文化55のキーワード』・ミネルヴァ書房・2016年より)

 

 
 

〔※42〕=『戦後マンガ史ノート』
石子順造・紀伊國屋書店・1975年

 

 

〔※43〕=『現代マンガの全体像』
情報センター出版局・呉智英・1986年

 

 

 

 

  上述した聞き取りや、自分の記憶をたよりに〈24年組〉の語が使われていそうな文献を改めて調べてみたが、どれも〈24年組〉の著者なりの解釈はわりと細かく書かれても、誰によって、いつ頃言われだしたかを明記したものは無く、知ってることが前提になっているか、不明のまま通称とか俗称とか述べられる。つまり、判然としないのが事実なのかもしれない。起源がわからないため〈24年組〉に誰が含まれるのかは、記述者によって、あるいは同じ記述者でもその年代の違いによって、微妙に異なる。以下、その違いを具体的に見ていこう。

 まずは、1980年に出版され、今のところ少女マンガ関係の文献で、最も資料価値の高い、米沢嘉博の『戦後少女マンガ史』〔※12〕。彼はこの本は評論集ではないと書いているし〔p.219〕、今では絶版になっていて(*5)、なかなか読めない本ではあるが、今のところ少女マンガについて最も広範に詳しく述べられたもので、影響力のある本。意外にも〈24年組〉という言葉の使用頻度は低く、序と本文最後の項目〔p.11、pp.216〜217〕の部分に、すでに説明すら必要ないほど当たり前の言葉として使われるのみ。これまでの5人以外で、〈24年組〉という言葉が使用されるあたりに登場するマンガ家は、樹村みのり〔※13〕山本鈴美香〔※14〕大和和紀〔※15〕里中満智子〔※16〕庄司陽子〔※17〕。ここでは彼女らが〈24年組〉だと、はっきり明示されるわけではないのだが。この中で昭和24年生まれは、樹村・山本。他に、本文中で〈24年組〉に関係のありそうな用語は「新ロマン派」と「HOT」と「りぼんコミックグループ」という言葉だろう。「新ロマン派」というのは、美術用語ではなく、少女マンガの世界では、あすなひろし〔※18〕を先駆とし、萩尾・竹宮を指す言葉らしいのだが、ほかに誰を指すのかは不明〔p.119、pp.144〜147〕。あすなひろしは1941年(=昭和16年)生まれなので、普通に考えると〈24年組〉ではない。「HOT」と言うのは萩尾・大島・竹宮のローマ字の頭文字をとったもの。『別冊少女コミック』(小学館)で彼女らが活躍していた時代、こう呼ばれたのだそうだ。そして彼女らの活躍の影には、当時『別冊少女コミック』の副編集長だった山本順一(順也、が正しい。現在『プチ・フラワー』編集長)(*7)が深く関わっていた事に触れている〔p.149〕。また、『りぼんコミック』というのは集英社が出している単行本「りぼんマスコットコミックス」の事ではなく、1969〜71年まで出版されていた集英社の月刊誌。初期の山岸凉子や、一条ゆかり〔※19〕が活躍していた事で知る人ぞ知る雑誌なのだが、この雑誌で活躍していた少女マンガ家たちを「りぼんコミックグループ」と称するらしい。他に、もりたじゅん〔※20〕ささやななえ〔※21〕土田よしこ〔※22〕等がいた〔pp.131〜134〕。今「りぼんコミックグループ」の説明であげたマンガ家の中では、一条ゆかりが昭和24年生まれ。

  私は1967年生まれだが、これらの用語はこの本を読むまで知らなかった。「大泉サロン」というのは知っていたが。〈24年組〉周辺には先にあげた「新ロマン派」のほか「新感覚派」とか「大泉サロン」とか芸術用語を流用した様な言葉がいくつか登場する。これらについては、他の資料をチェックしながら後ほど紹介する。

 11年後、構成を米沢が担当し、上述の『戦後少女マンガ史』の図版的な意味合いを持つ、別冊太陽の『少女マンガの世界II・昭和28年〜64年』〔※23〕にも〈24年組〉の語は本文中殆ど使われないが、米沢によって使われていた部分を引用しよう。「『別冊少女コミック』を主な舞台にしていた作家たちのつくりだす世界は、少女をもうひとつの世界に連れていってくれる圧倒的な空気の感覚、ロマンの香りを漂わせていた。彼女たちを中心に、24年組という言葉が囁かれるようになっていき、少女マンガは次のステップを踏み出していったのである。」〔p.136〕この文から、核となるマンガ家が萩尾・大島・竹宮とされる理由がわかる。また〈24年組〉という言葉の始まりらしきものが記された文でもある。この部分では〈24年組〉のマンガ家として、他には、ささやがあげられ、文章のニュアンスから、一条・山岸・美内すずえ〔※24〕池田理代子〔※25〕が入るとも取れる。1980年の『戦後少女マンガ史』と比べると木原・山本・里中・大和・庄司・樹村がはぶかれ、ささや・一条・池田・美内が加わっている。ちなみに、池田も美内も24年生まれではない。

 同書の中で最も〈24年組〉の語が使用されているのは、本文から独立した、中島梓の文章である〔pp.88〜89〕。少し引用しよう。「24年組、と通称するけれども、中には23年生まれの池田理代子、25年生まれの竹宮恵子たちも含めている。むしろ、同世代である、ということよりも、その作風に何か通じるものがあったといっていいだろう。彼女たちが嵐のように登場するまで、少女マンガは『要するに少女マンガ』でしかなかった。(略)内容がそうだったというよりも、男たちは〈女子供〉の世界に対して共感を持とうとはしなかった(略)不思議なことに、しかしそれ以前のほうが実際には少女マンガが男性の手で描かれている率は高いのである」。この文では〈24年組〉のきっかけは、萩尾望都だったのではないかと明記している点や、その後〈24年組〉のマンガ家たちが「大家」となり、まとめて扱われることはなくなったと書いて、作家をひとまとめに論じることを、やんわりと批判しているような点がとても貴重だろう。中島の文中では池田理代子・青池保子〔※26〕が〈24年組〉としてはっきり扱われている。2人とも昭和24年生まれではないが、彼女の解釈では〈24年組〉は世代に関係なく、共通の作風をもつマンガ家たちである。実際中島は「一般には24年組には入れられないが」ということわりを入れつつ、魔夜峰央や猫十字社〔※27〕槇村さとる〔※28〕までも、これに加えようとする。〈24年組〉という言葉のもつ問題点を悟ってのことだろう。

 またこの本にはちょうど村上知彦が、萩尾・大島・竹宮・ささやの解説を書いているので、その部分も見返してみたが、〈24年組〉どころかその周辺の用語すら一語も出てこない〔pp.80〜86、94〕。この12年前の1979年に刊行された、彼の最も代表的な著書『黄昏通信』〔※29〕でも、やはりあまり使用されないのだが「萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子、木原敏江、山岸凉子たち、いわゆる少女マンガにルネッサンスをもたらした〈24年組〉世代、〔略〕倉多江美〔※30〕坂田靖子〔※31〕花郁悠紀子〔※32〕伊東愛子〔※33〕、ルネッサンス第2世代」〔p.50〕となっている。(〔 〕部分筆者。)去年、出版された『日録20世紀1974年(昭和49年)』〔※34〕の〜ベルばらブーム〜の部分を村上が書いた記事では「こうしたブームを支えたのは池田理代子のほか、常時5人のアシスタントをかかえ週8本の連載をこなしていた里中満智子(26)、さらに『新感覚派』と呼ばれた萩尾望都(25)、竹宮恵子(24)、山岸凉子(26)、大島弓子(27)ら昭和24年前後に生まれた〈24年組〉と呼ばれるマンガ家たちだった。」〔p.4〕とされる。この書き方では微妙だが、読者には池田・里中も〈24年組〉に入ると解釈されそうだ。この引用部分には「新感覚派」の説明がなされているが、誰によってそう呼ばれたかは書かれない。やはり不明なのだろうか? 18年前の記述と比べると、木原がはずされ、里中・池田が加えられているとも取れる。またこの文には「大泉サロン」の説明も出てくる。1970〜72年まで萩尾・竹宮が同居していたアパートが、練馬区の大泉にあったので、そう呼ばれていたようだ。2年間だが(*12)、当時の新進少女マンガ家、伊東愛子・ささやななえ・山岸凉子・山田ミネコ〔※35〕などがかわるがわる出入りしていたのだそうだ。この中では、山田が昭和24年生まれ。

 橋本治のマンガ評論集『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』〔※36〕には〈24年組〉の語は使われていない。だが、作家論中心のこの本で扱われているマンガ家の多くが、いわゆる〈24年組〉のマンガ家である。だが橋本は、陸奥A子〔※37〕吾妻ひでお〔※38〕などについても同時に言及し、こういった枠をずらして見せる。

 竹内オサムの『戦後マンガ50年史』〔※39〕によると、『朝日新聞』は1975年に少女マンガに関する記事を掲載していた。その記事の確認をしてみたところ、〈24年組〉という語は使用されないが、少女マンガの世界で新しい流れを起こしているマンガ家に、土田よしこ・萩尾望都・池田理代子・里中満智子があげられている〔※40〕。竹内によると〈24年組〉はもともと〈花の24年組〉といい、萩尾望都・樹村みのり・大島弓子・竹宮惠子・山岸凉子らを指す。彼は、里中満智子・池田理代子・美内すずえは〈24年組〉とは違うことを強調している。この本によると〈花の24年組〉を〈1949年組〉と呼びかえた評論家もいたらしいが、こちらは定着しなかったようだ〔pp.139〜140〕。

  『COMIC BOX』は、その前身である清彗社時代の『ぱふ』を調べてみたところ、1979年の8月号、再録・まんが家訪問の「竹宮恵子さん」の回で最初に使われているのがどうやら最初だ。この記事は『漫波』〔※41〕という『ぱふ』の前身であるミニコミ誌の再録(*14)で、初出は1976年のものなのだが、「少女まんが家のなかに〈花の24年組〉と呼ばれる人たちがいるそうだ。」〔p.160〕と、すでに伝聞調。ふゅーじょん・ぷろだくと社長で『漫波』の頃からの関係者、才谷さんにお聞きしたところ、「僕のふるーい記憶をたどってみたところでは、米沢くんたちの『漫画新批評大系』あたりから〈24年組〉という言葉は使われ出したと思う」とのことだった(*15) 。この初出1976年は、今回私があたった資料中〈24年組〉の語が使用された最も古いものである。

 戦後マンガを概観してある他の書籍では、1975年に出版された、石子順造の『戦後マンガ史ノート』〔※42〕には新人らしい意欲の感じられるマンガ家として、池田・萩尾・土田の名があげられるが〔p.173〕、〈24年組〉の語は出てこず、1986年出版、呉智英の『現代マンガの全体像』〔※43〕では「『24年組』と通称される昭和24年前後に生まれた少女マンガ家たち、萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子らを中心に、池田理代子、樹村みのり、山岸凉子、倉多江美、里中満智子などが、新しい傾向のマンガを描き始めた」〔p.184〕とし、美内すずえは「一度『ガラスの仮面』を手に取ると、近代文芸理論の無力を嘲笑うかのような圧倒的な面白さの前に、読むことを中断することができなくなるほどである」〔p.186〕と別扱いで評価している。ちなみに、倉多江美は生年が書かれた資料が私には見つからなかったが(*16)、先程の村上の引用や、橋本の『花咲く〜』にも「とにかく倉多さんは私よりも若い、もう一つ下の世代に属する方だと、私は思うのです。」〔p.10〕とも書かれることから(ちなみに橋本は1948年=昭和23年生まれ)、〈24年組〉の後継者の1人としてよいだろう。

 
 
 
 

〔※13〕=樹村みのり
1949年11月11日埼玉県生まれ。デビューは1964年『りぼん』増刊春号に掲載された「ピクニック」。〔←『だっくす』1978年11月号より〕地に足のついた中短編の秀作が多い。「贈り物」の作者。1995年の「母親の娘たち」(河出書房新社)もお薦め。

 

 

〔※14〕=山本鈴美香
1949年6月17日山梨県生まれ。デビューは1971年『週刊マーガレット』10月増刊号に掲載された「その一言がいえなくて」〔←『週刊マーガレット』1976年35号より〕「エースをねらえ!」の作者。

 

 

〔※15〕=大和和紀
1948年3月13日北海道生まれ。貸本を経て(*6)、雑誌デビューは1966年『週刊少女フレンド』37号に掲載された「どろぼう天使」。〔←『ぱふ』1979年4月号より〕「はいからさんが通る」「あさきゆめみし」の作者。

後日注*6= 大和の貸本デビュー作は「海とふうせん」『銀河』1965年9月刊(創刊号) 「大和和紀先生作品リスト」および「『銀河』目次」より。


 

〔※16〕=里中満智子
1948年1月24日大阪府生まれ。デビューは1964年に『週刊少女フレンド』36号に掲載された「ピアの肖像」。〔←『里中満智子漫画家生活30周年記念作品集』記念図録より。出版社名・主催など特に明記なし〕「アリエスの乙女たち」「あすなろ坂」「天上の虹」の作者。

 

 

〔※17〕=庄司陽子
1950年6月4日千葉県生まれ。デビューは1969年『別冊少女フレンド』12月号に掲載された「海とルコックちゃん」。「生徒諸君!」の作者。

 

 

〔※18〕=あすなひろし
1941年1月20日宮城県生まれ。1961年「南に輝く星」(『少女ブック』新年増刊)と「まぼろしの騎士」(『少女クラブ』新年増刊)が同時に掲載されてデビュー、「青い空を白い雲がかけてった」の作者。

 

 

〔※19〕=一条ゆかり
1949年9月19日岡山県生まれ。1966年、貸本マンガ『雨の子ノンちゃん』(若木書房)でデビュー。〔←『ぱふ』1983年12月号より〕雑誌デビューは、1968年『りぼん』3月号に掲載された「雪のセレナーデ」。「デザイナー」「有閑倶楽部」の作者。ヤング・レディス誌『コーラス』に移って水を得た魚のよう。

 

 
 

〔※20〕=もりたじゅん
1948年2月18日千葉県生まれ。デビューは1968年『別冊りぼん』(号数未調査)に掲載された「マイ・エンゼル」。「キャー!先生」の作者。

 

 

〔※21〕=ささやななえ
1950年1月31日北海道生まれ。デビューは1970年『りぼんコミック』1月号に掲載された「かもめーGULL—」。〔←『ぱふ』1983年6月号より〕「おかめはちもく」「凍りついた瞳」の作者(*8)

後日注*8= 1996年に「ささやななえこ」に改名している。
 
 
 

〔※22〕=土田よしこ
1948年2月26日東京都出身。デビューは「ハレンチくん」。(『小説ジュニア』夏増刊号)。「つる姫じゃ〜!」の作者。

 

 

〔※24〕=美内すずえ
1951年2月20日大阪府生まれ。デビューは1967年『別冊マーガレット』10月号に掲載された「山の月と子だぬきと。「ガラスの仮面」の作者。

 

 

〔※25〕=池田理代子
1947年12月18日大阪府生まれ。196×年、貸本マンガ『由紀夫くん』でデビュー。〔←『ワイン色のつぶやき』池田理代子・1983年・国土社より〕雑誌デビューは1967年『週刊少女フレンド』増刊(号数未調査)に掲載された「バラ屋敷の少女」。「ベルサイユのばら」の作者。(*9)

後日注*9= 『由紀夫くん』の刊行は1967年。また「バラ屋敷の少女」掲載号は4月11日増刊号。(『池田理代子の世界』・朝日新聞出版・2012年より)



 

〔※26〕=青池保子
1948年7月24日山口県生まれ。デビューは1963年『りぼん』増刊冬号に掲載された「さよならナネット」。「エロイカより愛をこめて」の作者。

 

 

〔※27〕=猫十字社
19××年(*10)3月6日長野県出身。デビューは1978年『花とゆめ』3号に掲載された「天使の一日」。「黒のもんもん組」の作者。

後日注*10= 1962年( 『Fusion Product 創刊号』・ふゅーじょんぷろだくと・1981年7月号より)

 

 

〔※28〕=槇村さとる
1956年10月3日東京都生まれ。デビューは1973年『別冊マーガレット』(号数未調査)に掲載された「白い追憶」。「愛のアランフェス」「おいしい関係」の作者。

 

 

〔※30〕=倉多江美
19××年(*11)9月×日神奈川県生まれ。デビューは1974年『別冊少女コミック増刊ちゃお』(号数未調査)に掲載された「雨の日は魔法」。〔←『ぱふ』1978年7・8合併号より〕「ぼさつ日記」「一万十秒物語」の作者。

後日注*11= 1950年。元集英社編集者、故・倉持功氏に生前お聞きした。

 

 

〔※31〕=坂田靖子
1953年2月25日大阪府生まれ。デビューは1975年『花とゆめ』12号に掲載された「再婚狂騒曲」。〔←『ぱふ』1982年2月号より〕「バジル氏の優雅な生活」の作者。

 

 

〔※32〕=花郁悠紀子
1954年9月21日石川県生まれ。デビューは1976年『ビバプリンセス』春季号に掲載された「アナスタシアのすてきなおとなり」。〔←秋田書店・プリンセスC『白木蓮抄』1981年刊より〕「白木蓮(マグノリア)抄」の作者。1980年病没。最近活躍している波津彬子は彼女の妹。

 

 
 

〔※33〕=伊東愛子
1952年4月27日東京都生まれ。デビューは1973年『週刊セブンティーン』(号数未調査)に掲載された「風に乗ったミオ」。「先生に異議あり!」の作者。

 

 

〔※35〕=山田ミネコ
1949年7月11日神奈川県生まれ。19××年(*13)貸本マンガ「春の歌」でデビュー。雑誌デビューは1971年『別冊マーガレット』に掲載された「ひとりっ子の冬」。〔←『ぱふ』1980年10月号より〕「最終戦争(ハルマゲドン)」シリーズの作者。最近商業誌を辞め、同人誌専門の作家になると宣言。〔←別冊宝島『わたしをコミケにつれてって!』・宝島社・1998年・p.23より〕

後日注*13= 1969末頃貸本マンガ雑誌『学園カレンダー』(ヒロ書房)掲載の「春の歌」でデビュー。(「別マまんがスクール」の成立と鈴木光明展 」於・明治大学 米沢嘉博記念図書館、解説より。 展示準備時にご本人に確認)

 

 

〔※37〕=陸奥A子
1954年2月15日福岡県生まれ。デビューは1972年『りぼん』増刊秋号に掲載された「獅子座うまれのあなたさま」。〔←集英社・RMC・『たそがれ時にみつけたの』1975年刊より〕1970年代半ばから登場した「乙女ちっく少女マンガ」の代表的な作家。彼女のマンガは黒い部分さえかわいくて驚き。「たそがれ時にみつけたの」の作者。

 

 

〔※38〕=吾妻ひでお
1950年2月6日北海道生まれ。デビューは1969年『少年サンデー』欄外のコママンガ「ミニミニまんが」。ストーリーマンガでのデビューは同年『まんが王』12月号付録に発表された「リングサイド・クレージー」。「ふたりと5人」「不条理日記」の作者。

 

 

後日注*16= 1950年生まれ。後日注11参照。

 


世代による認識の違い


       
   
 

〔※44〕=『少女民俗学』
(文庫版)大塚英志・光文社・1997年。初出は同社から1989年に書き下ろされたかっぱサイエンスという新書。

 

 

〔※45〕=『「彼女たち」の連合赤軍』
大塚英志・文藝春秋・1996年

 

 
〔※50〕=「戦後まんがの表現空間—記号的身体の呪縛—」
大塚英志・法蔵館・1994年
 
 

〔※52〕=夏目房之介
画面や描線などマンガの表現そのものにこだわった論を1990年代後半に入って展開。少女マンガ表現に関しては『マンガはなぜ面白いのか』(日本放送出版協会・1997年刊)の第11章が出色。

 

 
 

〔※53〕=『漫画新批評大系』
総特集24年組。迷宮・1979年。『漫画新批評大系』は全部で13号あるらしい。(*18)

後日注*18= 2016年現在、『漫画新批評大系』は全部で16号出版されている。16号目は2011年に亜庭じゅんの遺稿集『亜庭じゅん大全』として刊行された。

 

 

〔※54〕=『マンガ批評体系』
平凡社・1989年・全4巻+別巻1

 

 

〔※60〕=『COM』
虫プロが1967年〜72年まで出していた雑誌(*19)。当時のマンガファンがどの様にこの雑誌に熱中したかは山本おさむのマンガ『ぺんだこパラダイス』(双葉社・アクションC・全4巻)に詳しく描かれている。現在活躍中の多くのマンガ家を輩出した。

後日注*19= 正確には71年12月号までが『COM』。翌月72年12月から73年前半まで『COMコミックス』〜『COMコミック』と誌名を変更し刊行。同年8月号で誌名を『COM』に戻すも同号で休刊(文化庁メディア芸術データベースより)。2011年9月20日。38年ぶりに『COM 40年目の終刊号』として朝日新聞出版より、雑誌ではなく書籍として出版された。

 

 

 

 

 最近の評論でよく〈24年組〉の語を使っている大塚英志は『少女民俗学』〔※44〕中の「昭和40年半ばに続々とデビューした一群の作家たちは、少女まんがを大きく変貌させる。萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、山岸凉子ら団塊世代の少女まんが家たち(のちに「24年組」と呼ばれるようになる)の出現によって、少女まんがは黄金時代を迎えるのである。」〔p.53〕の部分が示す様に〈24年組〉を団塊世代の少女マンガ家とし、同書で一条ゆかり〔p.60〕、1996年刊の『「彼女たち」の連合赤軍』〔※45〕で大和和紀〔p.196〕をはっきり〈24年組〉に加えている。大塚は先の引用文を次のように続ける。「瞳の中には星があって、スタイル画のような少女の背景にはバラの花が舞っている、という古典的な少女まんがの手法は、彼女たちによって否定される。」この解釈もどこか違和感がある。例えば、今手元にある花とゆめCOMICS『綿の国星』の1巻〔※46〕にも、バラの花はたくさん舞っているし〔p.109他〕、フラワーCOMICS『ポーの一族』1巻〔※47〕のメリーベルの瞳には星がある〔p.9他〕。彼女たちがしたのは、これまでの少女マンガの否定、ではなく応用と革新だ。細かい言葉にこだわる様だが、こういった批判の言葉はたいてい褒め言葉よりインパクトが強いので、結果なんとなくの揶揄として、そのあたりを漂うことになる。私は4・5年前マンガ専門店でバイトをしていた頃、20歳位のバイト仲間の女の子に好きなマンガ家をたずねたところ「少女マンガっぽいのは好きじゃない」と言うので、「じゃあ萩尾望都なんかは?」と聞いたら「こういう目がおっきくてキラキラした少女マンガじゃなくて、吉田秋生〔※48〕のようなのが好きなんだ」と返ってきてとても驚いたことがある。

  ちなみに米沢は『戦後少女マンガ史』で、「現在見られる、断ち切りの多用、コマを突き破るキャラクター像、2ページ見開きを1画面として構成する手法こそ、かって意味のないスタイル画と言われたものから行きついた形ではないのか。また、ムード線や点描等による心理表現、空間の処理は、あの乱れ飛ぶ花びらの流れから生まれたのではないか。」と、少女マンガの表現に言及する。確かに他の部分では「不気味な大目玉の少女」などと、男性読者らしい表現もしているが、これは米沢独自の偏見ではなく、当時の男性の一般的な感想だったと思う。それよりも米沢に関しては、新旧の少女マンガをよく読み込んでいることをやはり評価すべきだ。米沢は、少女マンガを楽しんで読む男性読者としての自分と、一般的な感覚との違いにとまどいつつも、〈24年組〉の作品は突然変異的なものではなく、それ以前の少女マンガの積み重ねの中で登場したのだと、少女マンガの全体を評価している〔p.11〕。17年後の大塚とのこの差は何かというと、実際に〈24年組〉と呼ばれるマンガ家たちが登場する以前、1960年代の少女マンガに目を通しているかどうかの差なのではないだろうか。きっと違う部分でもこういう類の指摘をされたのか、大塚はその後「記号的身体の呪縛」つまり、自分には物事の特徴を誇張して、記号的に捉える傾向がある。でも自分はそれをマンガ、特にマンガの絵を記号だとする手治虫〔※49〕のマンガ論からも学んだのだ、というような論を展開している。私のこの解釈も多分に記号的なので、詳しくは大塚の著書『戦後まんがの表現空間―記号的身体の呪縛―』〔※50〕を読んでもらいたい。この論の発想自体は興味深かった。彼がその評論や原作活動で、どのようにその呪縛からのがれていくのかにはこれからも注目していきたい。

 私は、いわゆる〈24年組〉以前の図像を伝えているマンガ家が、美内すずえなど、限られたマンガ家だけになった現在、例えば高橋真琴〔※51〕の再評価などが必要なのではないかとつねづね思っている。つまり〈24年組〉と言われるマンガ家たちがデビューしたころ、最も少女マンガ的と言われ勢力があり、こう言ってよければ、爛熟状態にあったので、〈24年組〉の評価以降だんだん影を潜めていった図像のルーツと、なぜ当時の少女たちがそれを選んだのか、ということをもう少しきちんと調べてみなければと考えている。少女マンガの図像研究は、1990年代に入ってから、夏目房之介〔※52〕などによって盛んな、マンガ表現の研究にとっても多分必要事項だろう。

 〈24年組〉について調べていると、ずっと探していた、1979年に発行された迷宮というグループの『漫画新批評大系』の総集編・花の24年組(改訂版)〔※53〕をお借りすることができた。他の『漫画新批評大系』はまだ読めていないので、誰か持っていたら読ませて欲しい。これは『戦後少女マンガ史』の巻末で、参考文献としても登場する初期のマンガ批評同人誌なのだ。(平凡社から出版された『マンガ批評体系』〔※54〕と混同されやすいが別。)ちなみに「迷宮」は今のコミケの母体となった団体である。『漫画新〜』の中で、私が唯一読むことができたのは、1冊殆どまるまる〈24年組〉の特集である。だが、やはり〈24年組〉の解釈が中心で、その言葉も基本的な知識も知っていることが前提となった内容。小説家であり「大泉サロン」のメンバーでもあった増山のりえのインタビュー記事では、メジャーになってしまった〈24年組〉とそれに続くマンガ家への危惧がすでに述べられている〔pp.35-37〕。目次にあげられるマンガ家、つまりこの本の中で〈24年組〉としてまちがいないのは、萩尾・竹宮・大島・木原・樹村・山岸・山本の7名にすぎない。それが20年を経て、世代のマンガ家を指す言葉に変容してしまったようだ。実際この本では「里中満智子、一条ゆかり、にはじまって、飛鳥幸子〔※55〕大矢ちき〔※56〕矢代まさこ〔※57〕あべりつこ〔※58〕、そして岡田史子〔※59〕も同世代の生まれである。彼女たちが24年組とわかたれるのは、彼女たちが〈読者〉とついにめぐりあうことがなかった点だろう。『COM』〔※60〕を経、『りぼんコミック』を経て、少女まんがの読者は成立した。」〔p.30。亜庭じゅん・文〕(〔 〕部分筆者)などとも分析される。この本には「極秘資料」として、昭和20年代前半に生まれた少女マンガ家のリストが掲載されている〔p.88〕。総勢61人のリストなのだが、この人数を見るだけでも、この頃の〈24年組〉は、ただ団塊の世代を指す言葉ではなかったことがわかる。大勢輩出した世代の新人たちの中で、良くも悪くも、マンガマニアが選んだマンガ家たちだったのだ。リストの中には忠津陽子〔※61〕など、私は好きだが〈24年組〉ムーブメントとともに、あまり読めなくなった実力者の名前もみられる。ちなみに彼女も昭和24年生まれ。

 
 
 
 

〔※46〕=白泉社・花とゆめC・『綿の国星』1巻。1978年刊。

 

 

〔※47〕=小学館・フラワーC・『ポーの一族』1巻。1978年刊。

 

 

 

〔※48〕=吉田秋生
19××年8月12日東京都生まれ。デビューは1977年『別冊少女コミック』3月号「ちょっと不思議な下宿人」。代表作は「櫻の園」「BANANA FISH」。

 

 
 

〔※49〕=手塚治虫
1928年11月3日大阪府出身。1946年『小国民新聞』(現・『毎日小学生新聞』関西版)に掲載された「マアチャンの日記帳」でデビュー。赤本マンガ『新宝島』の大ヒットを経て、雑誌デビューは1950年『漫画少年』11月号から連載された「ジャングル大帝」。翌年「鉄腕アトム」の連載を開始する。以降数々の作品を描く。1989年2月9日没。他「火の鳥」「ブラック・ジャック」「陽だまりの樹」の作者。アニメーターとしても有名。彼の「リボンの騎士」は戦後ストーリー少女マンガの最初の作品だと言われている。 (*17)

後日注*17= ここは、98年当時から疑問に思っていたので「言われている」としていた。今では「ストーリーマンガ」とは何ぞやという議論もある。

 

 

 

〔※51〕=高橋真琴
1934年8月27日大阪府生まれ。1953年赤本マンガ『奴隷の女王』(榎本法令館)でデビュー。赤本・貸本を経て、雑誌デビューは1957年『少女』夏の増刊号に掲載された「悲しみの浜辺」。マンガの代表作は「プチ・ラ」(原作:橋田須賀子)。現在はイラストレーター。イラストの代表的な仕事は、1967年〜76年の10年間担当した『デラックス・マーガレット』の表紙。〔←「高橋真琴展」弥生美術館・1997年の展示解説。およびご本人に確認。〕

 

 

〔※55〕=飛鳥幸子
1949年2月5日生まれ(出身地未調査)。デビューは1966年『週刊少女フレンド』(号数未調査)「100人めのボーイフレンド」。「怪盗こうもり男爵」の作者。アクションやSF少女マンガを得意としていた。

 

 

〔※56〕=大矢ちき
1950年10月23日岐阜県生まれ。デビューは1972年『りぼん』10月号に掲載された「王子さまがいっぱい」。〔←『ぱふ』1980年11月号より。〕代表作は「おじゃまさんリュリュ」一条ゆかりのアシスタントをして「デザイナー」の柾を描いたことでも有名。

 

 

〔※57〕=矢代まさこ
1947年1月×日愛媛県出身。〔←『COM』1968年8月号より〕1963年貸本マンガ「小さな秘密」(『すみれ』金園社の貸本短編集)でデビュー。雑誌デビューは1970年に『デラックス・マーガレット』に掲載された「シークレット・ラブ」。貸本時代の「ようこシリーズ」全28巻は貸本の名作として伝説的。

 

 

〔※58〕=あべりつこ
(=阿部律子) 1949年7月9日××生まれ。デビューは1970年『なかよし』増刊(号数未調査)に掲載された「おにいちゃんとトコとX」。代表作は「でっかいちゃんと集まれ」。

 

 

 

〔※59〕=岡田史子
1949年7月23日北海道生まれ。デビューは1968年『COM』1月号に発表された「ガラス玉」。〔←『COM』1968年4月号より〕『COM』出身の最も『COM』的なマンガ家というと、彼女と宮谷一彦だろう。

 

 

〔※61〕=忠津陽子
1949年1月25日生まれ。デビューは1967年『別冊マーガレット』9月号に掲載された「夏の日のコーラ」。〔←1977年『花とゆめ』19号より〕ラブ・コメディーの名手。「お金ためます」「花のアイドル伝」の作者。一昨年前、秋田書店から『冬恋物語』という新刊が出ていて嬉しかった。

 


「敬称」が引き起こした問題


       
   
   

 

 

 

 こうしたある意味、不自然なマンガ家の選別は、始めは、当時勢力の強かったタイプの少女マンガから、新しいタイプの少女マンガを「読者」の側から擁護するためのものだったのではないかと思う。〈24年組〉に選ばれたマンガ家とそうでないマンガ家との間に気まずい雰囲気が流れたのではないか、そして、マンガ家同士は、こうした選別をする特殊な「読者」の集団を疎ましく思ったのではないか?というのは推測の域を出ないが、この「読者」の中には、変な手紙を出す人が少なからずいたのは事実であるようだ。1976年の時点で萩尾は「私の描くまんがのファンには、作品のアラさがしとか、どうしようもない批判ばかりを、ぶっつけてくる層がある。そのようなまんがファンが、私の処に集中的に集まってくる傾向があるみたい。」「私はまんがマニアではない。私はプロなのです。わかってください」〔※62〕と記し、池田は、「ふざけるのもほどほどにしてッ!!○○さん(○○のなかに、それぞれ、ごひいきの漫画家の名をいれる)こそが第一人者よ。あんたなんか死ね、なんて手紙がドチャっと来るのよね。それも決して頭の悪そうじゃない人たちから。」「自分の好みにあったもの以外は評価できない、愚かなドマニアさん」〔※63〕と記している。池田もそうだが、特に〈24年組〉のボーダー線上にいるマンガ家には、変な手紙が多く送られた様である。後に一条ゆかりは「『9月のポピィ』というのを描いたら、大島弓子さんの『星にいく汽車』だったかな、すごく似ていると。昔、夢中になった男の子と離れ離れになってまた会うというあの設定は大島さん独自のものである、とか。そんなもの昔からあったじゃないか(笑)」〔※64〕と述べているし、木原敏江は「でね、ファンレターにまじって、きたのよ、いろいろと。(略)―あんたが24年組だなんて認めない。ハギオさんとつきあうのやめたら?―とかね。スゴイでしょー(略)友人選ぶのはあんたじゃないわい。」「ところで、いつ誰が言いだしたのか『24年組』。それまでの少女まんがの歴史をかえた、S23、24、25年生まれの女性作家達を総括して、『24年組』と言うそうです。で、私も、どうやらそのしっぽに入ってるらしいんですが、でも私は『24年組』じゃないもんね。断固。たしかに生まれは同じ頃ですが、めざしてる方向も舞台も資質も違うもの。それを同じ土台にのっけて、一方をほめたたえ評する時のたたき台にするなんて、フェアじゃないと思ったし。」〔※65〕と記している。両者ともそれまでの少女マンガの影響を程よく残しつつ、新しかったので、その新しさが分かりにくいマンガ家だったのだろう。私の知る限りでは、木原のこの文は〈24年組〉という言葉について、それに含まれるマンガ家が直接コメントしている唯一のものだ。一条や木原はその怒りをも糧に描き続けられたが、そうではないマンガ家も多かったに違いない。「そういう人は、どのみち続けられなかったんじゃないの」というのは簡単だが、それは、素人の生兵法を擁護してるのと同じではないのか?

 先の大塚は『「彼女たち」の連合赤軍』で〈24年組〉について「昭和24年(一九四九年)前後に生まれた少女マンガ家たちの一群をマンガ界はある種の敬意を込めてそう呼びならわす。」〔p.189〕とも書いている。一群という書き方は気になるが、私も〈24年組〉は敬称だとかなり長い間思っていた。魔夜峰央が使っていたという知人もいたが、その部分は見つけだせなかった(*20)花とゆめCOMICS『パタリロ!』11巻〔※66〕に「男:『ドイツのギムナジウムで一緒だったんです。』/パタリロ:『11月ごろ?』/男:『はあ?』/パタリロ、文学少女風の扮装で:『だんだんマニア化していく自分がこわい』」〔p.75〕というシーンがあったけど。その作品を読んでいれば、魔夜が彼女たちのマンガのファンなのは伝わってくるので、使っていたとしても〈24年組〉は敬称だと思っていたはずだ。だが、〈24年組〉と称されたマンガ家たちにとっては、長い間、先に例をあげたような手紙を思い出させる嫌な言葉だったのでは? 年齢差別的な部分もあるし、そんな敬称ってあるのか? 1970年代に批評家の卵だった米沢・村上たちは、彼女たちにそうした「ドマニア」たちの中心だと思われているのかもしれない〈24年組〉の記事といえば、彼らが書くことが多いのに、不思議と両者の接点は無いようなのだ。少女マンガに限らず。批評家と作家というのは、微妙なものだろうが…。私はもともと大島・木原作品のファンで、彼女達が〈24年組〉に含められるのを何かで知り、それを通して萩尾・竹宮・山岸などの作品を知ったという経緯がある。もちろん彼女達の作品も好きになったのは言うまでもない。1970年代からの、いわゆるマニアたちの〈24年組〉評価と、短編の多い彼女たちの作品が繰り返し評価され再版されている事とは、切り離して考えにくいと思う。

 ともあれ、これまで書いてきた〈24年組〉という用語の問題点をあげてみる。

 

1. 生年、つまり女性を年齢でくくっている点。
   
2. 彼女たち以外のマンガ家、とりわけ彼女たち以前の少女マンガ家たちへの偏見を、助長する恐れがある。
   
3. ただ、団塊世代の女性マンガ家を擁護する語になりかねない。
   
4. 〈24年組〉にあげられる作家自身が、好ましく思っていない可能性が高い。

 

 おおまかな世代で作家をとらえるのは便利だし、時代の雰囲気をつかむのにも役立つので必要だろう。また、読者が自分と同時代の作家に愛着をもつのはあたりまえだが、それを強調することが引き起こす問題は案外大きい。今後、マンガ用語〈24年組〉は注意して使用していきたい。

 また今回ここで展開した、これまでの批評活動の分析は、ともすればただの悪口になりかねない。出典と引用を明らかにすることや、データを多くすることが、そうならずに分析・批評を展開してゆく1つの方法だと考えているので多く付記した。読者の方には読みにくい点もあったかと思う。どうかご了承願いたい。

 
   

 

 

 

 
   

参考文献・資料

1975年『戦後マンガ史ノート』石子順造(紀伊國屋書店)
1975年『朝日新聞』11月4〜6、8日記事。少女まんがの世界1〜4
1979年『漫画新批評大系』総特集・総括。花の24年組(迷宮78)
     ※1978年に出されたものの改訂版。
1979年『黄昏通信』村上知彦(ブロンズ社)
1979年『ぱふ』8月号(清彗社)
     まんが家訪問13.竹宮恵子さん 
     ※1976年『漫波』9月号を再録したもの。
1979年『少女まんが入門』鈴木光明(白泉社)
1980年『戦後少女マンガ史』米沢嘉博
1983年『ぱふ』12月号。(雑草社)特集一条ゆかり
1984年『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』文庫版〔前・後〕
     橋本治(河出書房新社)※単行本1979年(北栄社)
1986年『現代マンガの全体像』呉智英(情報センター出版局)
1986年『マンガ青春記」中島梓(集英社)
1990年『花草紙』木原敏江全集6.木原敏江(角川書店)
1991年『漫画の歴史』清水勲(岩波書店)
1991年『少女マンガの世界II.昭和28〜64年』構成・米沢嘉博(平凡社)
1992年『日本漫画家名鑑500 1945〜1992』(アクアプランニング)
1994年『戦後まんがの表現空間』大塚英志(法蔵館)
1996年『戦後マンガ50年史』竹内オサム(筑摩書房)
1996年『「彼女たち」の連合赤軍』大塚英志(文芸春秋社)
1997年『漫画家アニメ作家人名事典』(日外アソシエーツ)
1997年『少女民俗学』文庫版 大塚英志(光文社)
     ※初出・1989年(光文社)新書に書き下ろし。
1997年『日録20世紀 1974年(昭和49年)』(講談社)ムック

 
 
 
 

〔※62〕=『週刊マーガレット』(集英社)1976年34号p.116・117

 

 

〔※63〕=『週刊マーガレット』(集英社)1976年33号p.123

 

 

 

〔※64〕=『ぱふ』(雑草社)1983年12月号p.13

 

 
 

〔※65〕=木原敏江全集6『花草紙』(角川書店)1990年・p328-329

 
 

後日注*20= こちらも、後日再確認したところ載っていた。花とゆめCOMICS『パタリロ!』37巻p.12(白泉社・1988年刊)。「おまえたちは俗に24年組と呼ばれるあのへんの女流漫画家の恐ろしさを知らんのだ」と、結構鋭くつっこんでいた。

 

  〔※66〕=花とゆめCOMICS『パタリロ!』11巻・1982年刊・p.75


[web版]2016/5/31公開[→初出掲載ページPDF

●調査校正、webレイアウト:図書の家
2016/6/1『少女民族学』3箇所を【正】『少女民俗学』、『漫画新批評体系』1箇所を【正】『漫画新批評大系』に修正
2016/6/2 素人のナマ療法を擁護 →【正】素人の生兵法を擁護 に修正

 

「増補版をWEB公開するにあたって

図書の家さんのご好意で、「〈24年組〉は誰を指すのか?」の増補版(改訂版ではないです)を
WEB公開することができました。

今読むと、本当に生意気で調査不足の多い文章ですが、この文章をきっかけに、
大勢の方と知り合うことができ、たくさんのことを考えることができて、今の自分につながっています。

この1998年に〈24年組〉のことを改めて調べることになったのは、
同年夏に行った「出版資料に見る少女まんが」用にこの語の解説を書きたかったからでした。
でも、調べるうちに解説どころの話ではなくなってしまいました。

読まれた方の何人かは、「24年組という言葉を使ってはいけない」という文章だと思われたようで、
自分の文章力の無さにガッカリしたりもしました。

書いた当時も今も、こうした経緯を踏まえたうえでやはり敬意を持って、この語は使われていくのが
いいのではないかな、と思っています。

今ではもう少し調査も進んでいて、少しづつあちこちで話したり書いたりしているのですが、
そのあたりもそのうち文章でまとめて読めるようにしたいです。

2016年5月31日 ヤマダトモコ  




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