月の岩屋【萩尾研究ワークショップ】
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Anything O.K.?
text: 城野ふさみ

2002/9/22 last update
all illustration by Fusami Jono

06求む!天才漫画
12オタクな生活
18後悔役立たず
24夏の思いで

30虚構の中のリアル
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ジョウノイラスト ▼好 第6回

求む!天才漫画

update:2002/4/6

さて、私の好きなアイテムの一つに“天才と凡人”というのがあります。
例えるなら「ガラスの仮面」。
天才肌と思える亜弓さんは実は努力の人で、凡人に見えるマヤちゃんは実は天才肌。
凡人のはずのマヤちゃんの才能にいち早く気が付く亜弓さん、頑張って頑張って手に入れた場所を天才的な才能に追い詰められる危機感、豪華さの裏の努力、凄くかっこいい!
逆に追い掛け追い付く側の爽快感も大好き。凡人だったマヤちゃんがどんどん注目されていく過程。
天才的才能の開花って、昔から使われる手法でありながら未だに好きでたまらない設定なのです。
今なら「ヒカルの碁」もそれですよね〜。あと、個人的注目株はカードゲームでもお馴染みの「遊戯王」!
主人公ゲームの天才・武藤遊戯くんと、彼の宿命のライバル同じくゲームの秀才・海馬瀬人くん。2人とも隙のないゲーム戦略で天才ぶりを発揮するのですが、注目すべきは遊戯くんの親友・城之内克哉くん。海馬くんに「犬の骨」呼ばわりされるほどの駄目駄目デュエリストだった彼が遊戯の天才的才能と友情パワーに引きずられるように成長していく様は同じく凡人の私としては憧れてしまうんですよねえ〜。
一世を風靡した「スラムダンク」なんかも同じジャンルに入ってますね、ほかにも「テニスの王子様」「ホイッスル!」「はじめの一歩」「ピアノの森」。週刊少年ジャンプは努力・友情・勝利を三本柱にしているだけあってさすがに多いですね。サクセスストーリーは少年漫画の王道ですね。
でもね、少女漫画は成功イコール大団円ではないのね。着地地点が男の子と女の子は違うのかな〜?
少女漫画の天才は苦悩して苦悩して足下に幸せを見つけるのだ。
「花の娘ルンルン」だって、幸せの虹色の花は我が家にあるのだよ。青い鳥だって我が家にいるのだ。
そういうのも嫌いじゃないけど・・・・
まだまだ男性作家が少女漫画を描いていた頃は、少女は天才ではなかったか?
最近の少女漫画はなんだか夢がリアルすぎて〜購買する比率も下げどまり傾向にあります。
20年近く前のあの豪奢で華麗な少女漫画は復活しないものでしょうか? バラ背負って、点描まいて、女の子に黄色い声援をあげられるヒーローはどこかに現れないのでしょうか?
わたし的には爽快感のある少女漫画が読みたいのだ〜〜〜!!!切に、切に希望しております。
そんなわけで最近では王子様を求めて少年漫画を愛好しているのでありヤス。

ジョウノイラスト ▼好 第12回

オタクな生活

update:2002/5/18
 漫画に限らず、好き=詳しいと解釈されることが多く、漫画に詳しいひとと話すと知識が伴わなくてまったく会話が成立しないことも多くあります。好きなだけでは「漫画好き」を名のってはいけないのかしら?と自問自答の日々です。
 初対面の相手からよく聞かれる質問に「好きな音楽なに?誰を聞く?」というのがありまして。好きなアーティスト名をあげたりすると相手はよりディープな会話を求めてくるのです。ただ好きなだけな人とライブに行ったりする人と会話が成立するはずがありません。同じように日常的な場でわたしが「漫画が好き」と聞くと決まったように「誰がすき?」と聞かれます。「萩尾望都(ちょっといじわるに)」と答えると。「なんに描いている人?」「プチフラワー」「ふーん、知らないな〜」「そうだろうね」会話終了。相手は別にディープな会話を求めているわけではないのだ。やはりここは大人になって誰でも知っているメジャーな作家さんを答えよう。「う〜ん岡崎とか桜沢とかキューティ系?」「おもしろい?」「まーねー(…社交辞令かよ)」最近発見した一番無難な答えは「毎週ジャンプ買うほどに好き」これならそんなに漫画に詳しくない人でも何となく理解してもらえます。どうも、お互いがどのくらい知識を持っているかでオタクか一般人かの位置が決まるようです。お昼休みに女の子に「バレエまんが読みに国会図書館まで会社さぼって行ったことがある」といったところ「えーわたしもバレエやってるからバレエまんがすきー!どんなのよむの?」「(ま、無難にね)アラベスクとか?」「…しらないな〜」「…じゃあ、ハーイまりちゃん?」「あ!知ってる」「(…)他はなんかしってる?」「さー?」(それを好きって言うんだったらやっぱり言わない方がいいんじゃないかしら?)この場合この人たちにとってわたしはオタクです。
 最近では「好きだけど詳しくないから」とか適当に断ってから話をはじめるようにしてますが。本っ当に好きなもののときは「お願い聞かないで、機関銃のように喋り倒しちゃうから〜」と断ることにしてます。相手との会話のバランスがとれなくなる話題はできるだけ避けないといろんなものが壊れます。全く詳しくないお嬢さんに強引に本を貸して仕事中に小一時間ほど熱弁を振るって行った同僚がいたのですが、果たして迷惑な自分の行為に気が付いているのでしょうか?(ただし、わたしから見ればその人としてはかなり譲歩して話していた)人の振り見て我が振り直せでです。この人は周囲からオタク系と判断されていますがその判断基準とはいったいどんなものでしょう。迷惑な人をオタクと指しているような気がします。
 しかし、共通の年代の人たちと共通の漫画知識を披露しあうのは大変楽しいです。いま、読み返したい本は『キン肉マン』。これと『北斗の拳』に関しては同年代のおじさん達は大盛り上がりです。あと最近酒宴の席で盛り上がっていたのは『ヒカルの碁』。おもむろにゲームボーイアドバンスを懐から取り出し、「おもしろいよーヒカルの碁、あ、このプリクラうちのこどもー。おれ、××さんと塔矢名人と佐為どっちが勝つか賭けて負けちゃったよ〜」とか言ってました。マンガネタが許容な仕事仲間を持つと仕事のおつきあいもたのしいです、ただし、場所と相手を選んで行き過ぎないようにしないといろんなものが壊れちゃいます(恐)職場でオタクはほどほどに。

ジョウノイラスト ▼好 第18回

後悔役立たず

update:2002/6/29

 年をとると体力が落ちます、体力が落ちるといろいろな弊害が出て参ります。さて、ここ近年骨身にしみて感じることは腕の力がなくなったこと。少しの時間ペンを握り続けただけで線がよろりよろりと心もとなくなります。手首も肩も腰もすぐに悲鳴を上げはじめ、根性のない私はちっとも机の前で座り続けることが出来ません。30過ぎたら漫画家さんのペンタッチや絵柄が変わるのはこういうことか〜〜とようやく実感したわけです。
 どうやら長くて奇麗な線は若くて勢いのある時分にしか描けない線のようで、強弱のついた流れるようなラインを正確な位置へ導く作業は体力がなければ続けられないし。線が思い通りの位置に運べなくなったらペンタッチや絵柄を変えて対応して行かなければただのみっともない線にしかならないんだな〜と。若かりし頃、大好きだった女流漫画家さんの絵柄が変わってしまっておこったり哀しんだりしたけど、ああ〜そうか、そうなんだなーこりゃぁしかたがないわな〜とひとり納得してしまいました。
 髪の毛とか効果線とかをきれいに引くことで画面を華やかに処理する作家さんだったら、致命的だろうと思うわけです。話の内容だけで読ませるのなら小説で十分で、漫画ってやっぱり画面で堪能する文化だしな〜。
 ところが、線に重点を置かずに漫画を描いている作家さんにとっては全く関係がない話だったりもする。画面は凄くまとまっている、話もうまい、でもよくよく見ると「あれ、この線よたってるよ〜」ってありません? 極端な話、安野モヨコ先生なんてデビューから今に至るまで線がよたりまくってますが、それ以上に引き付ける個性があるし、枠線が繋がってない、とか枠線からはみだしているとか全然気にしてない。でもおもしろかわいい! あんだけよたってたら普通読む側が不安になったりするもんだけど、全然そんなことないんだな〜。
 デッサン力って30歳までに身に付けないと一生無理なんだそうで、でも技術力は一生成長するんですって。基本さえ押さえておけば創意工夫でどうにでもなるっていうこと。(アシスタントさんを鍛えることで補って行くという手段もあるしな〜)でもって個性って言うやつはどんなに頑張っても得られないわけで。
 と、ここまでかいといてなんですが、私は趣味で年間数えるくらいしか絵を描かない人間で毎回描く段階になってあわてて錆びたペン先や裏の白い落書き用の紙を探す訳で、華やかな画面と程遠いところにおりますので話半分で聞いておいて下さいませ。自分の下手なのを年のせいにしつつも、ああ〜若いうちにデッサンやっておくべきだったと後悔役立たずな毎日なわけです。

ジョウノイラスト ▼好 第24回

夏の思いで

update:2002/8/11

 私の子供頃、実家の隣に廃品処分場があった。300坪程度の場所に誰も住まない古い家と廃車となった車の山、産業廃棄物などに混ざって小高い雑誌の山があった。
そこは私にとって宝の山であり、楽しいテーマパークだったのだが、今思えば危険きわまりない遊び場である。積み重なった車へよじ上ったり、廃屋に幽霊が出ると言っては探険していた。
悲しいことがあったりすると木の上か海、でなければ雑誌の山の上に座っている子供だった。木に実った果実を憂さが晴れるまで食べたり、海ぞいを延々と歩いたり、漫画雑誌を読んでいれば忘れてしまえるのだから今と変わってないわけである。
 夏休みに入ってすぐに雑誌の山で週刊マーガレット1年分という大物を発見してしまったことがある。自宅まで持ち帰り(何往復したかは覚えていない)1週間は読み耽ったのではないだろうか。今も昔も一つのことに捕われると他が何も手に着かなくなる性格は変わっていないのでそのときも只ひたすら縁側で漫画雑誌を手繰り続けていたと記憶している。日がな一日漫画を読んでいれば両親も何かしら文句をいったと思うのだが、庭でのんきに近所のおばさんと私を指差して仕方ないと苦笑していたことしか覚えていない。本を読むことを私に勧めたのは母であり、漫画にしろ小説にしろ、活字を追い出すと他のことがてにつかなくなり電信柱にぶつかったり側溝に嵌まったりは日常茶飯事だったので既にあきらめられていたのかもしれない。実を言えばそれまで少女漫画とか少年漫画といった区別は全く認識していなかったと思う。別に続きで読まなくても困らなかったし、話が途中でもかまわなかった。一つの漫画に執着することもなく、存在するものをただ見て楽しんでいたのだ。そういう子供にとって週刊マーガレット1年分は私が漫画の読み方勉強するにはもってこいの素材だったらしい。順番に一つ一つの話をおって読みすすめて行く楽しさ、キャラクターを把握して読み進む楽しさが初めて理解できた。ちなみにそのときお気に入りだった漫画は「チャイニーズ台風」ひたか良 と「飛んでるルーキー」湯沢直子。読んだのはその1週間だけだったにもかかわらずこの2作品だけは作品名も作家名も覚えていた。(と言っても未だ再読は果たせていません。)
 それから漫画が好きになったかと言うとシリーズものを読む楽しさを理解できたのでシャーロックホームズや江戸川乱歩へ行ってしまったのだ…数年後、推理小説と赤毛のアンがお気に入りだったわたしは「ポーの一族」という名作を読むことにより、少女漫画との劇的な再会を果たしたわけです。

ジョウノイラスト ▼好 第30回[最終回]

虚構の中のリアル

text: 城野ふさみ
update:2002/9/22

 1970年代に描かれた萩尾望都の少女達は鎖から解き放たれたように身軽に飛び跳ねていた。軽やかな彼女たちの裏側に女性であるための抑圧がうっすらと影を差しそれは一層軽やかな魅力を際立たせていた。
いつからか萩尾の描く少女達は軽やかな羽を捨て、抑圧ばかりが重くのしかかるようなそんな足取りの女性になったように感じる。その反面少年達は重い抑圧を振り切るようにもがき苦しみ羽ばたいて行く。女である部分を捨てて自分も飛んで行ければどんなに良いだろう。
 私は九州出身でいいかげん良い年をした女である。おかげで萩尾望都が悩んだであろう女性蔑視の苦しみを容易に想像できるようになってきた。年輩の親類の言う幸せと自分が望むものとの差は話して解ってもらえるものではない。相容れない意見を延々と聞かされても親の理想に従うことは出来ない自分。女でなければ看過されるであろう事柄がとてもたくさん存在する。女性である重さは都会の比でなく存在する。30になる頃から精神的にも落ち込みやすくなる。女性の性とはそういったものなのだからそれを上手にごまかしてつきあって行かなければならない。両親の望む自分と本来の自分との乖離。
 その心の重い檻を30代の萩尾望都は見事に紙の上に昇華させたと思う。20代の頃に描かれたダーナやフロルのような飛び跳ねるような少女ではなく、心に重い檻を持つ女性達とそこから飛び立つ少年たち。
 「11月のギムナジウム」を初読したときのあの衝撃は、虚構の中のリアルに敏感に反応し涙した14歳のわたしは既に私の中には存在しない。だけれど30を越えなければ解らなかったリアルを理解することができる。この先40、50となったときその視点でしか解らないであろうリアルを垣間みることができるのであろうか?
 飛べないアオバは一体どんな女の子なのか、いろいろと楽しみだ。


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