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No.20
“群集(モブ・シーン)は主人公のじゃまにならぬように整理して描け”とはかの石森章太郎『マンガ家入門』にある注意書きだが、モブ・シーンというのは描き手にとって相当面倒なものに違いない。でも、それを楽しそうにだだだだ〜〜っと描いちゃってる先生方が、世の中にはいる。
萩尾さんのデビュー作「ルルとミミ」には、どたばたモブ(注:造語)の王様である手塚治虫直系の、ケーキ合戦の見開きモブ・シーンがある。投げ合い合戦といえば、そうそう、かの「トーマの心臓」の食堂のスープ合戦というのもあったなあ。こういった動きの激しい、かつ、コミカルに大人数が入り乱れるモブ・シーンは、ハギオさんお得意の独壇場。描き手の楽しさが伝わってくる1コマだ。
しかしモブ・シーンというものは、仕事が増えれば他の手を借りるのが世の常ヒトの常。萩尾さんもその例外ではなく、アシさんに人物線をゆだねた時期もある。74年から75年、「トーマの心臓」連載のあたりは佐藤史生さんや花郁悠紀子さんがアシスタントとしてたくさん描いているのは有名なことだが、それはほんの一時期のみ。ハギオ作品のペンタッチは、またほとんどが主人の筆で揃っていくことになる。――それはなぜ?
もしかするとそのきっかけは、その時期から発表が目立ってきた少女漫画の枠を超えたSF作品だったかもしれない。「百億の昼と千億の夜」「銀の三角」「マージナル」などの長編SFにおいては、壮大な世界観を表現するためにモブ・シーンという装置はごく頻繁に登場する。特に「マージナル」における男ばっかりのソレは圧巻。何しろこの作品の主役は“世界”。たおやかな女は存在せず、長髪の美形も埋没する群集の世界だ。
思うに、モブ・シーンというのは描く側の頭にどれだけのイメージが構築されているか、そしてどれだけ表現しうる技術があるかが見て取れる怖ろしいアイテムだ。なのに、物語に必要ならばと容赦なきディレクション能力で、軽々と作品に配置するのがわれらがハギオさん。彼女の手によれば、物語では名も与えられない人物たちにも性格があり表情があり、モブがモブとしての魅力を最大限に発揮することになる。
しかし、これだけ描けるなら、いっそ萩尾版『ウォーリーをさがせ!』みたいなのもいいな。シュロッターベッツの礼拝や、ガブリエル・スイスの創立祭、スコッティの村のバンパネラ狩り、銀の三角の祈りの朝。そして私たちは探す、いつまでも、かの人を。
